「五輪書」から学ぶ Part-9
【地之巻】兵法に武具の利を知ると云事

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   五輪書から】何を学ぶか?  

 私など凡人は、どの道においても、極めた人や高い地位にいる人を、その道だけではなく、その性格や人徳、人格に至るまで優れてほしいと、願ってしまったり、時には、錯覚している事もあると思います。思い込みが激しい分、その地位にいる人の、意外とも言える、人格の破綻を垣間見るとショックを受けてしまいます。
 その代表的なニュースが、近年の代議士による不祥事ではないでしょうか。近年ではなく、昔からなのかも知れません。公職や聖職といわれていた人たちは、武蔵の言葉に耳を傾ける必要があるのではないでしょうか。武蔵が、 「五輪書」から学ぶ part-3でも、「近代、兵法者といひて世を渡る者云々」と、釘を刺しているのですから。その職業に対する善悪、プライドを守るべきと思います。

【地之巻】の構成

 1. 序                  
 9. 兵法に武具の利を知ると云事
10. 兵法の拍子の事
11. 地之巻後書
『原文』
9.兵法に武具の利を知るということ (原文を下記のルールに従って加筆訂正あり)
 武具の利をわきまゆるに、いづ
れの道具にても、折りにふれ、ときに従ひ出合ふものなり。脇差は、座のせばきところ、敵の身際へ寄りてその利多し。太刀は、いづれのところにても、おほかた出合ふ利あり。
 長刀は、戦場にては鑓におとる心あり。鑓は先手なり、長刀は後手なり。同じ位の学びにしては、鑓は少し強し。鑓・長刀も、ことにより、詰りたるところにてはその利少し。とり籠りものなどにしかるべからず。ただ戦場の道具なるべし。合戦の場にしては肝要の道具なり。されども、座敷にての利を覚え、こまやかに思ひ、実の道を忘るるにおいては出合ひ難かるべし。
 弓は、合戦の場にて、駆け引きにも出合ひ、鑓脇、そのほかもの際々にて速く取り合はするものなれば、野間の合戦などにとりわきよきものなり。城攻めなど、又、敵間二十間を越ては不足なるものなり。当世においては、弓は申すに及ばず、諸芸花多して実少し。さやうの芸能は、肝要のとき役に立ち難し。
 城郭の内にしては、鉄炮に及くことなし。野間などにても合戦の始らぬうちにはその利多し。戦ひ始まりては不足なるべし。弓の一つ徳は、放つ矢人の眼に見えてよし。鉄炮の玉は、眼に見ヘざるところ不足なり。この儀よくよく吟味有べきこと。
 馬のこと、強く応へて、癖なきこと肝要なり。
 そうじて、武道具につけ、馬もおほかたに歩き、刀・脇差もおほかたに切れ、鑓・長刀もおほかたに通り、弓・鉄炮も強く損ねざるやうにあるべし。道具以下にも、片分けて好くことあるべからず。余りたることは足らぬと同じことなり。人真似をせずとも、わが身に従ひ、武道具は手に合ふやうにあるべし。将・卒ともに、ものに好き、ものを嫌ふこと悪し。工夫肝要なり。

加筆訂正のルール
                 *仮名遣いを歴史的仮名遣いに統一
                 *漢字は現行の字体に統一
                 *宛て漢字、送り仮名、濁点、句読点を付加
                 *改行、段落、「序」「後記」を付けた

 『現代文として要約』
 9. 兵法に武具の利を知るということ
 武具の利点を身に付けると、色々な場合に対応することができる。脇差は狭い所で敵の傍で使いやすい。刀はどんな場所でも、大体対応できる。

 薙刀は戦場では、鎗に劣る。鎗は先手の武器で、薙刀は後手の武器である。同等の技術では、鎗は少し勝る。鎗・薙刀は相手との間合いが詰まると使いにくい。立て籠っている相手にも向かない。合戦専用の武具であるが、合戦の場では、重要な道具である。ただし、屋内での利に拘れば、細かな事に気を取られると、本来の使い方を忘れて、対応ができなくなる。

 弓は、合戦の時の駆け引きにも対応でき、鎗・脇差、その他の時にも素早く対応でき、平地での合戦に向いている。しかし、城攻めや20間(36.36m)を超えては使えない。現在は弓は言うに及ばず、色々武具武芸が多いが、見栄えばかりで実際の役には立たない。

 城内に籠っている時は、鉄砲に勝るものはない。平地の戦いでは、合戦の始まる前に威力を発揮する。始まってしまうと、役に立たない。弓の利点を言えば、目に見える事である。鉄砲の弾は目に見えないところが弱点である。このことは、よく考える必要がある。

 馬は反応が早く、癖のないことが重要である。

 武具については、馬もほどほどに良く走り、刀、脇差もほどほどに切れ、鎗・薙刀もそこそこに鋭ければ良い。弓・鉄砲も破壊力が過ぎないものが良い。他の武具についても、偏って好んではいけない。過ぎたるは足らぬことと同じである。人の真似をしなくても、身に合うもの手に合うものが大事である。大将であっても、家来であっても、武具の選り好みをしないことが必要である。

 『私見』
 ここでは、その当時の武具について語っていますが、戦国の時代が終わってから、武具についても装飾が過度になった事が読み取れます。 お習字の通信教育受けてますでも「美しくなったから使いやすくなったのではない。使いやすくなったから美しくなった」という、刀匠、河内國平氏の言葉を紹介しましたが、江戸初期にはすでに崩壊しかけていたのかも知れません。

 独特の見識だと思うのは、弓矢は見える事に利点があり、鉄砲の弾は見えない事が不利になるというくだりです。合戦を体験した訳でも、戦争を体験した訳でもありませんので、軽々に論じる事は避けたいのですが、あくまでも、推測として考える事にします。

 合戦では、一丸となっている時が、一番戦力としてベストと考えられます。弓矢は空から降ってくるので、その矢の軌跡を見せて動揺させる事ができる。敵を烏合の衆に変貌させる効果があるのではないでしょうか。もちろん、その頃の武器を想定しての話です。現在の弾道ミサイルなどを考えた場合、まったく違った戦略を立てる必要があると思います。

 また、ほどほどに走り、ほどほどに切れれば良いというのは、選り好みをせず身にあったものを使い、使い方に習熟する意味であろうと思います。

 それでも、破壊力が過ぎないものが良いというのは、今の所、合点がいかず、釈然としない気持ちが残ります。

 今回は、 「地の巻」と言う事で、武具の利点について、概略を説明しているのですが、実際に戦いの場で使わないと判らない事が、端々に書かれています。

 今でも、殆どの人は平和を望んでいるものと思います。それでも、世の中は物騒な話題が、毎日のようにニュースになります。 空手道という武道にも、記述しましたが、フロイトはアインシュタインの問いに対して【法は暴力に支えられており、そして法の支配は時に破綻して暴力の支配にとってかわられるものだ】と見解を返答しています。
 
 人間の本性なのでしょうか。嘆かわしい事です。それでも、備えあれば憂いなし、と言いますから、その時代に応じた武器は、まだまだ人間が完成の域に達するまでの間は、必要なのかも知れません。

【参考文献】 
・佐藤正英(2009-2011)  『五輪書』ちくま学芸文庫.


 
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