【出典:熊本県立美術館 所蔵品 データベース 独行道】
今回の【一生の間よく志ん思王須】は、昔も今も同じ意味の言葉と思われます。
墨蹟では、 左のように変体仮名が書かれています。これは、左から [志][王][須] が元の漢字です。ここでは、それぞれ、「し」「わ」「ず」と、【一生の間よくしん思はず】と読みます。
『よくしん』について、考えて見る事にしましょう。
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空手道という武道
「煩悩からの脱却」に載せてありますが、煩悩には「貪・瞋・痴」という根本の毒があると、仏法では考えられています。
この三毒の中の「貪」が「欲心」に当たります。
私は、両親を亡くしてから、毎日「仏前勤行次第」と言うお経を上げていました。古希を迎え、その読経を止める事にしました。
私は、お坊さんでもありませんし、特に信仰心がある分けでもありません。なぜか、母が亡くなった次の日から、ひたすら毎日「仏前勤行次第」を上げる事を日課にしていました。これも、代々真言宗であると聞いていましたので、その宗派に則った「仏前勤行次第」を購入しました。
一応、間違った方法ではいけないと思い、高野山の高僧のお経が入ったCDを購入し何度か聞き、参考にしました。
平成12年に亡くなっていますから、かれこれ17年の歳月が流れています。その間に父も亡くなりましたが、供養になったとも、自分の為になったとも思っていません。
ただ、この「仏前勤行次第」の初めに書かれてあるのが、合唱礼拝、次に、懺悔(さんげ)があります。
そこには、
無始よりこのかた 貪 瞋 痴(とん・じん・ち)の煩悩にまつわれて身と口と意(こころ)とに造るところの もろもろの つみとがを みな悉(ことごと)く懺悔(さんげ)したてまつる
我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋痴
従身語意之所生 一切我今皆懺悔
と、書かれてあり、声に出して読経します。
毎日毎日、声を出して読んでいますと、いやでも頭に残ります。そして、どんな意味なのか、知りたくなるのが人情です。
しかし、毎日のように懺悔しても、一向に煩悩を無くすことなど出来ませんでした。まぁ、信心という事から程遠いものですから。
ただ、このお経のお陰で、人間は煩悩具足である事に気付かされました。
他から何か影響がある分けでは無く、自分の行動と、言う事、考える事が色々な罪や欠点を作っているのだと知らされたのです。
武蔵が、一生の間と言っていますが、私は、一生の間、煩悩具足のままで終えるのだろうと予測しています。
私がそうだから、武蔵も、とは言いませんが、私は、その欲の度合いが問題では無いのか、と今は思っています。
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「足るを知る」と、何度も、何度も言っていますが、この「懺悔」を「あっ、そうか!」と思った時に、この「貪・瞋・痴」の「痴」にあたる、愚癡(愚痴)を少なくする事が、出来るのではないかと思っています。
『欲心』の発信元は、自分である事に、早く気付く事だと思います。
【参考文献】
・佐藤正英(2009-2011) 『五輪書』ちくま学芸文庫.
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