【出典:熊本県立美術館 所蔵品 データベース 独行道】
【 自他共尓うら三をか古川心奈し】、『か古川』は、『かこつ』と読み、『自他共に恨みを託つ心なし』と読み替える事ができます。下記は変体仮名と元になる漢字、及び読み方です。
[尓](に) | [三](み) | [古](こ) | [川](つ) | [奈](な) |
ここでも、勉強不足から知識のなさが露呈します。『託つ』なんて言葉は、古希を過ぎるまで、聞いた事もありません。
『託つ』から取り掛かって行きましょう。
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ここでも、学研全訳古語辞典を頼って見る事にします。
(1) かこつける。
(2) 恨みごとを言う。嘆く。
(3) 頼る。
と言う意味があるようです。
『託つ』の前の言葉が、『恨みを』ですから、やはり、(1)のかこつける。か、(2)の中の嘆く、が、ぴったりするように思います。『恨みを口実にする』と「かこつける」を「口実にする」と替えると意味が通じそうです。(2)の場合は言葉が被さってしまうので違和感があります。
そう考えると、「自他共に恨みを口実にする心なし」となります。 それでも、自他共にとなると、私には意味不明です。さっぱり、分かりません。
参考文献によると、「自他共に」を「己についてであれ、他人についてであれ」と訳していますが、私にはピンと来ません。他人を恨むことはあっても、自分を恨む人はいないと思います。もし同じような感情があるとしたら、自分を苛む(さいなむ)事はあったり、後悔したりすることがあっても、恨むことは、余程第三者的なものの考え方をしないと、浮かびません。
それでも、主客を逆転して、他人が恨む事、自分が恨む事とすればどうでしょうか。
そこで、『自他共に』と言う言葉を、もう一度考えて見る事にします。通常は、「自他共に認める」とか「自他共に許す」と言う風に、使います。ここまでなら、分かります。
自他共にと言う言葉は、ある事に対しての評価が、自分も他の人も同じ時に使う言葉ではないでしょうか。
『自他』と言う言葉と、『共に』を、同列に扱わないで、『他人が恨む事も、自分が恨む事も』理由にしない、と考えて見ましょう。
そうすると、『自分が恨みに思う事に対して、その恨みを元に(かこつけて)相手を斬る』あるいは、『他人が恨んでいる事に同情して(かこつけて)、その恨みの相手を斬る』と、読み替える事ができ、『かこつ心なし』の言葉も、すんなり合点が行くようになりました。
武蔵の言葉には、現在使われている日本語の、文法上の使い方とは、違った使い方がされているのかも知れません。これが武蔵の時代の言葉の使い方かどうかは、私には分かりません。
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言葉を分析する事は、専門家に任せるとして、この文章から、何となく私がイメージできるのは、『何事によらず、誰かに責任を転嫁する気持ちはない』。あるいは、『何かがあっても、人のせいや、物のせいにして恨み言を言う事はない』
と、読み解く事にしました。
「恨み」と言う言葉を考えないで、「かこつ」だけに焦点をあてれば、源氏物語の一節「よからぬ人こそ、やむごとなきゆかりはかこち侍るなれ。」のように、高貴な人を当てにして、『虎の威を借りる狐のような振る舞いはしない』と言えるのですが、少し武蔵の言いたい事とは、違うのかも知れません。
兎角、人は他人のせいにして、自分の責任を回避しようとします。私も、随分そんな人を見てきました。男の風上にも置けない人が、現実に沢山います。
生きるって、そんなに自分に都合の良いように行くものでしょうか。自分に都合よく行かないから、人生は面白いのです。
『天知る地知る吾知る』と言う故事の通り、公明正大に生きる事が、自分にとってもストレスなく、つまらない事で、後ろめたい気持ちにもならないと、思うのですが。
残念ながら、社会では、そんな責任転嫁をする人が、出世する場合も多く見てきました。なんだか、釈然としないですね。
それでも、私は、『自他共尓うら三をか古川心奈し』と、武蔵が言うような生き方を好みます。
【参考文献】
・佐藤正英(2009-2011) 『五輪書』ちくま学芸文庫.
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