「五輪書」から学ぶ Part-30
【水之巻】石火のあたりと云事

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   五輪書から】何を学ぶか?  

  石火の機 [不動智神妙録から学ぶ(Part5)]という言葉がありました。『五輪書』にある、「石火のあたりと云事」と違いはあるのでしょうか。

 石火の機(不動智神妙録)では、「石火の如く」早くすれば良いのではなく、早くしようと、そこに心を止めてはいけないし、また止めてはいけないと思う心も良くないと説いていました。

 さて、同じように、火打石から出る火花を引き合いに出し、沢庵和尚がいう事に合点がいくか、それとも、武蔵の言う石火から学べる所があるのか、興味のある所です。
 いずれにしても、電光石火のような素早い動きが要求されます。

【水之巻】の構成

 1. 水之巻 序           
20. 石火のあたりと云事
21. 紅葉の打と云事
22. 太刀にかはる身と云事
23. 打とあたると云事
24. 秋猴〔しゅうこう〕の身と云事
25. 漆膠〔しっこう〕の身と云事
26. たけくらべと云事
27. ねばりをかくると云事
28. 身のあたりと云事
29. 三つのうけの事
30. 面〔おもて〕をさすと云事
31. 心〔むね〕をさすと云事
32. 喝咄〔かつとつ〕と云事
33. はりうけと云事
34. 多敵の位の事
35. 打あひの利の事
36. 一つの打と云事
37. 直通〔じきづう〕の位と云事
38. 水之巻 後書
『原文』
20. 石火のあたりと云事 (原文を下記のルールに従って加筆訂正あり)
 石火の当たりは、敵の太刀とわが太刀と付け合ふほどにて、わが太刀少しも上げずしていかにも強く打つなり。これは、足も強く、身も強く、手も強く、三ところを以て速く打つべきなり。
 この打ち、たびたび打ち習はずしては、打ち難し。よく鍛錬すれば強く当たるものなり。
加筆訂正のルール
                 *仮名遣いを歴史的仮名遣いに統一
                 *漢字は現行の字体に統一
                 *宛て漢字、送り仮名、濁点、句読点を付加
                 *改行、段落、「序」「後記」を付けた
 『現代文として要約』

 20. 石火のあたりと云事

 石火の当たりとは、敵の太刀と自分の太刀が接近して、自分の太刀を少しも上げずに、強く打つことである。これは、足も身も、手も強く、この三か所を活かして、速く打つ必要がある。
 この打ち方は、何度も打って稽古しなければ、打つことが出来ない。よく鍛錬すれば、強く当たるものである。

 『私見』

 やはり、武蔵の言う、「石火」とは、火花のような、速さを強調しているのでしょう。沢庵和尚は、石火の機を捉えた時の、心のあり様を戒めていますが、武蔵は、如何にして、石火の如く刀を振り下ろせるようになるかを示しています。

 武蔵が強調したいところは、「わが太刀少しも上げずして」(原文)の所だと思っています。準備動作がなく、今刀がある所から斬る。と、教えています。ノーモーションの方が、現在の人には解りやすいのかも知れません。「上げずして」も刀の位置が下にあれば、切り上げれば良いのであって、「少しも下げずして」と替えて読めば良いのだと思います。

 もう一つ、武蔵が言わんとする所は、「足も強く、身も強く、手も強く、三ところを以て」(原文)でしょう。モーションもなく、強く、速く、刀を操るには、小手先だけの業で対処してはならないと、注意しています。
 如何にしたら、素早く強く斬れるかについても、具体的に、下半身を踏ん張り、体幹を締め、手に力を込める事によって、石火の当たりが出ると、教えてくれています。

 私には、武蔵が教える所を十分に鍛錬し、いざ実戦の時には、沢庵和尚の言う「心の在りかた」が重要な要素になるように感じています。

 これは、何も兵法や剣術、あるいは空手などの格闘技だけに限った事ではあません。どんなスポーツでも、たゆまね練習をいくら重ねていても、いざ本番の時に緊張したり、混乱してしまっては、心も体も言う事を聞いてくれません。
 最終的には「心」が、生理的な部分を含めて「体」を支配してしまいます。

 矛盾するようですが、心と体は一体にしなければ、役に立ちません。いくら、心が支配する体であっても、その支配されても役立つような体(技術も含めて)でなければいけないと思っています。

 武蔵が言う事にも、沢庵和尚の言う事にも、どちらにも気付く必要があるのではないでしょうか。
 

 【参考文献】 
・佐藤正英(2009-2011)  『五輪書』ちくま学芸文庫.


 
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