| 【五輪書から】何を学ぶか? |
今日の題名のように、一気に秋を感じさせる季節になりました。「秋」をどう感じるかは、人それぞれですが、私は過ごしやすい静かな秋を想像してしまいます。
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「読書の秋」、「食欲の秋」や「天高く馬肥える秋」などは爽やかな秋ですが、「物言えば唇寒し秋の風」、「秋の日は釣瓶落とし」などは、なぜかもの悲しさも感じさせるのが、秋、という事でしょうか。
「小春日和も暖かく、みんなの心そのままに、うれしい今日の運動会」と歌った小学校の運動会から、60年の歳月が夢のように過ぎ去って来たことを思い出すのも、秋なのかも知れません。
【水之巻】の構成
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24. 秋猴〔しゅうこう〕の身と云事
25. 漆膠〔しっこう〕の身と云事
26. たけくらべと云事
27. ねばりをかくると云事
28. 身のあたりと云事
29. 三つのうけの事
30. 面〔おもて〕をさすと云事
31. 心〔むね〕をさすと云事
32. 喝咄〔かつとつ〕と云事
33. はりうけと云事
34. 多敵の位の事
35. 打あひの利の事
36. 一つの打と云事
37. 直通〔じきづう〕の位と云事
38. 水之巻 後書
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24. 秋猴〔しゅうこう〕の身と云事

秋猴の身とは、手を出さない心である。敵の間合いに入る時に、少しも手を出す気持ちがなく、相手を打つ前に、身体を速く入る心である。手を出そうと思えば、必ず相手は間合いを外し遠くなるので、全身を素早く移動して入る気持ちである。相手の刀を素手で受け取る程の間合いであれば、身体も入りやすいものである。よく熟考するべきである。
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『私見』

秋猴とは、「秋の寒さに手を縮めている猿」(出典:『五輪書』ちくま学芸文庫.)という解説がありました。直ぐには理解しがたいと感じています。秋は季節が良いので、冬なら納得できるのですが、良く判りません。
しかも、旧暦であれば、秋は、7月・8月・9月の事を指すと思いますし、寒さとは程遠い季節と思います。
ただ、検察官記章にある「秋霜烈日」のように、秋に降りる霜の厳しさを表すこともありますので、やはり秋は寒いのでしょうか。
武蔵が言おうとした事は、本来、長い手を持ち、器用にその手を使う猿を、引き合いに出したのではないのか、とも思っています。
相手との間合いは、手の位置によって距離を測る場合が多いと思います。その手を長く出せば、相手との間合いも遠くなり、攻撃しにくくなるのが、一般的でしょう。
武蔵が言う、間合いを詰める方法として、手を使わないで、身体を近づける方法は、確かに理に適っている方法です。十分に使える器用な手を使わない方が、間合いを詰めやすいと、言う事でしょう。
柳生石舟斎宗厳(柳生 宗矩の父)の歌に「斬り結ぶ 太刀の下こそ地獄なれ 身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ 」があります。武蔵の言葉とも言われていますが、私は幼少期からの思い込みかも知れませんが、石舟斎の歌だったと記憶しています。
この歌にある場合は、切っ先の下は地獄であるが、半歩身を寄せると、反って安全であるという事だと思います。しかし、間合いが近すぎて、刀が思うように振れないという事もあります。通常は、間合いが近い事は、どちらにも有利ではありますが、どちらにも不利な局面だと思います。
ここで、大切なのは、自ら意思をもって近づく事に、大きな違いがでます。
しかも、素早く入る方法として、素手で相手の刀を奪うつもりで、と書いてある事は、特筆すべき言葉だと思います。これだと、石舟斎の歌も活きてきます。
これを実現するためには、単に蛮勇であっては、「勝つ利」とは言えません。相当の稽古が必要であろうと思っています。
現在の社会でも、若干意味合いは違いますが、「相手の懐に飛び込む」と言う言葉を使います。相手に気に入ってもらえるキッカケになったり、相手の気持ちを理解するうえでも、大切な方法ではないかと思います。
しかし、これも、少し間違えば、非礼にもなりかねません。結果は惨敗と言う破目にあっている人を見る事があります。
本当に、よくよく考えて見ないといけませんね。
【参考文献】
・佐藤正英(2009-2011) 『五輪書』ちくま学芸文庫.
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