「五輪書」から学ぶ Part-42
【水之巻】喝咄〔かつとつ〕と云事

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   五輪書から】何を学ぶか?  

 「五輪書」には、攻守の間隙を表現している場面が出てきます。この「喝咄と云事」でも、動きのある中での対処の仕方が示されています。

 通常の解説書などは、相手の攻撃に対して、単純に反撃の仕方が書かれることが多いと思います。武蔵のように、相手の攻撃を避けて、次に反撃をするまでに、相手の動きを止めたり、気持ちを居着かせたり、驚かしたりするような「術」と言うような表現を見る事は稀だと思います。

 にも拘らず、「こうくれば、こうする」風の空論にならず、筆を進められるのは、実戦でなくても、約束しない攻防の経験から来るものだと思います。

 物事の計画を立てたり、カリキュラムを立てたりする時は、武蔵のような、自分の心も、相手の心も、また、自分の動きも、相手の動きも、見逃すことがないよう、些細な情報を取り入れる能力が必要だと思います。

 ややもすると、三段論法に陥りやすい計画ですが、それでは落ち度を回避する事が出来ません。コンピュータのプログラムなどは、そういう落ち度は許してくれません。それでも、時間の制限や納期にせかされて、完璧なものはなかなか出来ないようです。Jアラートや年金システムなど、国を揚げて取り組んだものでも、不備が目立ちます。

 しかし、これが命のやり取りだと、一瞬の落ち度が命取りに成りかねません。現在では、表面上は命のやり取りではありませんが、計画が不備であったり、プログラムの不備で大きな会社が、いや国民の命まで危険にさらされる事になります。
 
 大きな台風がいつもいつも、被害をもたらします。防災に対する計画も、もう少し英知を結集できないものでしょうか。

【水之巻】の構成

 1. 水之巻 序           
32. 喝咄〔かつとつ〕と云事
33. はりうけと云事
34. 多敵の位の事
35. 打あひの利の事
36. 一つの打と云事
37. 直通〔じきづう〕の位と云事
38. 水之巻 後書
『原文』
32 喝咄〔かつとつ〕と云事 (原文を下記のルールに従って加筆訂正あり)
 喝咄といふは、いづれもわれ打ち懸け、敵を追つこむとき、敵また打ち返すやうなるところ、下より敵を突くやうに上げて、返しにて打つこと。いづれも速き拍子を以て、喝・咄と打つ。喝と突き上げ、咄と打つ心なり。
 この拍子、なんどきも打ち合ひの内には専ら出合ふことなり。喝・咄のしやう、切先き上ぐる心にして敵を突くと思ひ、上ぐると一度に打つ拍子。よく稽古して吟味あるべきことなり。
加筆訂正のルール
                 *仮名遣いを歴史的仮名遣いに統一
                 *漢字は現行の字体に統一
                 *宛て漢字、送り仮名、濁点、句読点を付加
                 *改行、段落、「序」「後記」を付けた
 『現代文として要約』

 32 喝咄〔かつとつ〕と云事

喝・咄と言うのは、どんなときにも、自分が攻撃し、敵を追い込むとき、敵が反撃するときに、下より敵を突くように上げて、その反撃を返して打つこと。全て速い拍子で、喝・咄と打つ。喝と突き上げて、咄と打つ気持ちである。
 この拍子は、いつも打ち合いの時には、主に出くわす。喝・咄の仕方は、切っ先を上げる気持ちで敵を突く気持ちで、上げると同時に打つ拍子である。よく稽古して熟考する必要がある。

 『私見』

 現代文に要約しても、「喝」「咄」と言う言葉は、現代には馴染まないと思います。「喝を入れる」という言葉は、聞いたことがあると思います。「カツアゲ」の「カツ」も「喝」ですね。
 禅宗では修行者を叱咤する時に発する言葉ですが、言葉というより、気合のような「音」と理解すると解りやすいと思います。
 「咄」も「音」ですが、舌打ちのような音を指します。ここでは、瞬間に発する「声」と思うと良いかも知れません。

 私は、この「喝」を、相手を驚かす、「咄」を瞬時にと解釈しています。今風に言うと、フェイントで相手の気持ちを誘い、隙を作り、一気に攻撃すると言った流れでしょうか。
 フェイントの方法も色々ですが、相手を単に崩すというより、気持ちまで揺らがせるのが、「喝」でしょう。一瞬世界が止まるような気合によって、相手を居着かせることが重要です。

 試合場では騒がしく効力は望めませんが、静かな所で大きな声で気合を掛けると、一瞬その場の時間が止まったようになります。そんな時には、「気合」は大きな効果を上げるでしょう。
 常に心と体が一致するような「気合」を掛ける稽古は、必要だと思っています。地響きするような「声」を発するようにしましょう。

 注意点があります。「気合」と言うのは、気持ちと体を一致させる効果があります。科学的にも、気合を掛けた方が力が出やすいと言います。

 ただ、この「喝・咄」の大事な所は、「喝」はキッカケで、「咄」が主の目的になります。この事を自分の気合で忘れてしまっては、元も子もありません。
 常に俯瞰するような気持ちを、忘れてはならないでしょう。

 【参考文献】 
・佐藤正英(2009-2011)  『五輪書』ちくま学芸文庫.


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