【五輪書から】何を学ぶか? |
「五輪書」の中では、「水之巻」が38項目に亘っていて、読書としては、ようやく峠を越えたところでしょうか。
ちなみに、「地之巻」が11、「火之巻」が29、「風之巻」が11、「空之巻」が1と、「水之巻」が群を抜いて多く書き記されています。
「五輪書」の概要を記すため、このように多い項目が出来たのでしょう。この項目の中で、ある項目は、なるほど、と思い、ある項目は、さほど心に通じるものではなく、また、ある項目は、今日からでも実施してみようと思ったのではないでしょうか。
前にも書きましたが、私は殆どと言って良いほど、読書をしていません。幼少時より、映画や漫画であらすじは知ってはいましたが、吉川英治の「宮本武蔵」に出会うまでには随分と時間がかかりました。
どうも実際の宮本武蔵と違うと言う情報があり、それではと、宮本武蔵が書き記したとされる、「五輪書」を、学生時代に、読むことになったのです。
空手道と言う道を歩もうとした時、「五輪書」は、武道を求道する者にとって、避けて通る事のできない書物だろうと思った分けです。
根っからの勉強嫌いですから、「五輪書」を現代文に訳したものでさえ、読み終えるのに相当の期間が必要でした。しかも、一度読んでも「分った」とならないのですから、何度も挫折しながら、ようやく目を通すことができました。そうです、「目を通す」程度に読み終えました。
不思議なもので、空手道の経験もあり「読書百遍義自ずから見る」【出典:三国志】の言葉通り何とか読みこなす事ができたように思います。それでも、読書と言うのは、自分の器によって読み方が変わると思いますので、また、違った発見があるのかも知れません。
【水之巻】の構成
38. 水之巻 後書
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38 後書
右に書き付けたのは、二天一流の概要である。
兵法において、太刀を持って人に勝つ方法を覚えるのは、まず、五方の構えを知り、太刀筋を体得することによって、全身が柔らかく、心も働くようになり、戦う拍子を知り、自身と太刀を持つ手が冴えて、身体も足も、心の思うままに、一人に勝ち、二人に勝ち、戦い方の良い悪いを知る事にな。この書に書かれてある、一条一条を稽古して、相手と戦うごとに、次第に勝つ利を会得し、絶えず心にかけて、焦らず、その時々に実際に経験し、勝つ方法を覚えて、誰とでも打ち合い、その心を知って、千里の道も一歩づつ足を運ぶ事。ゆっくりと、この方法を行う事が武士の役割であると心得て、今日は昨日の自分に勝ち、明日は自分よりも劣る者に勝ち、その後は、自分より強い者に勝とうと思い、この書物のように稽古し、少しも脇道に心を逸らさないよう思うこと。たとえ、どれほどの相手に勝ったとしても、習ったことと違う勝ち方では、本当の道ではない。
勝つ利を心に置けば、一人で数十人にでも勝てると思う事。そうして、剣術の智恵を働かせ、合戦、一対一を問わず、勝つ事ができる兵法にするべきである。千日の稽古を鍛として、万日の稽古を練とする。よく熟考すること。
新免武藏守玄信
正保二年五月十二日(1645)
寺尾孫之允信正
柴任三左衛門尉美矩
明暦弐年閏四月十日(1656)
吉田忠左衛門実連殿
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『私見』
武蔵は、二天一流を、その当時世間で言われていたと思われる、剣術の類と同じレベルで扱って欲しくなかったのだろうと思います。
確かに武蔵本人は、多彩な才能があり、一芸に秀でる者として、軍略にも通じていたのかも知れません。しかし、一生その軍略的な才能が生かされる事は無かったものと、言わざるを得ません。
しかし、「五輪書」の内容からは、兵法とは別に、剣術としての類まれな武才と、洞察力を読み取る事ができるのではないでしょうか。
この「水之巻」で二天一流の概略は書き記したと言っています。個人的には、次の「火之巻」に書かれてある事に興味を惹かれた時期がありました。その事については、次回以降に書き記したいと思っています。
この「後書」に「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とす。」と言う言葉がありますが、鍛練と言う言葉の語源になっているようです。宮本武蔵の言葉が語源となって、鍛練と言う言葉ができたというのは、今回このブログを投稿するために調べて、初めて知りました。ただし、事実かどうかを調べたわけではありません。
原文の引用に用いた、 『五輪書』佐藤正英(2009-2011)著では、糸偏の練と言う文字が使われていましたが、数ある写本の中には「錬」と言う文字もありますので、私は、何となく、「鍛錬」と言う言葉を使っています。意味合いからは、「鍛練」と糸偏の練が正しいとは思います。
空手にも、突き三か月、蹴り三年と言う言葉がありますが、別に三と言う数字に意味がある分けではなく、突きは数か月もあれば、格好は付くが、蹴りをそれなりにするには、時間がかかると言う意味で使います。
この千日、約三年、万日、約三十年も、人生僅か五十年と言われた時代の言葉ですから、修行は一生かけてするものだと、言いたいのではないでしょうか。
武蔵よりも遥に永く生きてしまっていますが、まだまだ道半ばにも到達できません。それこそ、一生修行でしょう。
【参考文献】
・佐藤正英(2009-2011) 『五輪書』ちくま学芸文庫.
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