「五輪書」から学ぶ Part-45
【水之巻】打あひの利の事(他)

スポンサーリンク
   五輪書から】何を学ぶか?  

 今日のテーマは、三つ同時に紹介します。理由は「私見」に書きます。
 
 「五輪書」から何を学ぶか、を考える時、まず、私たちは理解しなければなりません。その理解という事を考えて見たいと思います。

 私は、ある会社の在職中に「理解力」「咀嚼力」「表現力」と題して、社員教育をした事がありました。
 人は簡単に、「あっ、分った」と、言ってしまいます。例えばこの「五輪書」にしても、「読みました」イコール「分かりました」と言う意識で答えが返ってきます。果たして本当に解ったのでしょうか。

 「分る」と言う言葉は、「解る」も「判る」も公的な文章では使われず、「分る」とします。私的な文章では、意味合いが分るように、「判る」も「解る」も状況が直ぐに理解できて便利だと思います。

 では、なぜ、理解することを、「分る」と言うのでしょう。

 「分る」(わかる)と言う文字は「分ける」(わける)と言う言葉を語源としています。
 人間は生まれてから、今の今まで、見るもの、聞くもの、触るもの、その他五感を通して感じるもの、すべての情報が蓄積されている、という事を聞いた事があります。しかし、残念ながら、これは知識とは呼べません。なぜなら思い出せる機能が備わっていないからです。しかし、この情報の蓄積が智慧を生みます。無駄な事ではないようです。

 ここでは、理解すると言う、プロセスを考えて見ましょう。普通に「分った」というのは、自分の持っている知識と、新しい情報合致した時に、「分った」と思えるのでしょう。入って来る情報を、知識と結びつける作業の事を「分ける」と言います。この「分けられた」状態が、すなわち、「分った」となるのです。

 しかし、この知識が単に言葉を知っている時も「分った」となってしまう所に、落とし穴があります。また、知識と合致しないでも、大体そんなものかと、「分けて」しまう事も人間の特性で、良いところでもあるし、悪い所でもあります。

 私が考える「分った」は、「腑に落ちる」と言う意味と考えています。ですから、それぞれ価値観が違うように、「分る」と言う言葉の捉え方が違うのかも知れません。

 この「五輪書」にしても、習い事にしても、言葉ではなかなか伝えられないものがあります。
 そこには、「分った」から「腑に落ちる」までの間に、相当の稽古や鍛錬、練習が必要です。そして、ある日「あっ、そうか」と合点がいき、「自得」するのです。

 「五輪書」に度々でてくる、「能々吟味あるべしや「能々分別すべしが言おうとしている事を「合点」する必要がありそうです。

【水之巻】の構成

 1. 水之巻 序           
35. 打あひの利の事
36. 一つの打と云事
37. 直通〔じきづう〕の位と云事
38. 水之巻 後書
『原文』
 (原文を下記のルールに従って加筆訂正あり)
35 打あひの利の事
 この打ち合ひの利といふことにて、兵法、太刀にての勝つ利を弁ゆるところなり。こまやかに書きしるすあらず。稽古ありて、勝つところを知べきものなり。おほかた、兵法の実の道を顕す太刀なり。 口伝。
36. 一つの打と云事
 この一つの打といふ心を以て、たしかに勝つところを得ることなり。兵法、よく学ざれば心得難し。この儀、よく鍛錬すれば、兵法心のままになつて、思ふままに勝つ道なり。よくよく稽古すべし。
37. 直通〔じきづう〕の位と云事
 直通の心、二刀一流の実の道を受けて、伝ふるところなり。よくよく鍛練して、 この兵法に身をなすこと肝要なり。 口伝。

加筆訂正のルール
                 *仮名遣いを歴史的仮名遣いに統一
                 *漢字は現行の字体に統一
                 *宛て漢字、送り仮名、濁点、句読点を付加
                 *改行、段落、「序」「後記」を付けた

 『現代文として要約』

 35 打あひの利の事  

 この打ち合いの利により、兵法、太刀で勝つ利を弁えるところである。詳細には書き記す事はしない。稽古をして、勝つ方法を知らなければならない。概ね兵法の本当の道が現れる。口伝による。

 36. 一つの打と云事

 この一つの打ちと言う気持ちで、確かに勝てるようになる。兵法をよく学ばないと体得する事が難しい。この事は、よく鍛錬すれば、兵法の道に通じ、思うままに勝つ事ができる方法である。よく稽古すること。

 37. 直通〔じきづう〕の位と云事

 二刀一流の本当の道を伝授されたので伝える。よく鍛錬して、身に付ける事が肝心である。口伝による。

 

 『私見』

 「五輪書」の不可解な部分だろうと、思います。この次の「後書」を見ると、この「水之巻」を寺尾孫之允信正に宛て書き記し、譲られているように見受けられます。

 しかし、この打あひの利の事、一つの打と云事、直通〔じきづう〕の位と云事の三つについては、どうも武蔵が書いたものとは思えません。
 まず、口伝(くでん)としている部分については、武蔵から直接かどうかは推測の域をでなませんが、口伝ですから、武蔵から伝承されたものでしょう。口伝としていない、「一つの打ちと云事」についても、口伝と口伝の間に、武蔵が直接書いたものを挟むというのも、違和感を感じます。

 内容は、打ち合う事でしか「勝つ利」を得る事はできない。そして、一度刀を振り下ろせば、必ず相手を斬る気持ちが「勝つ利」につながる。まさに、示現流のような稽古を通してその「術理」を身に付ける事ができる。そして、二天一流の真の道を知るためには、稽古して身に付けなければならない。と、読むことができます。

 「直通」と言う表現に対して、通常はちょくつうと読むと思いますが、ここでは、じきづうと読むことになっています。
 原文にあるように、二刀一流の道を学ぶことによって、初めて伝えられる事でしょうから、奥義や極意にあたるのでしょうか。

 あるいは、字の通り、直(じか)に通ずる気持ち、すなわち、会得と言う言葉に変えるとすれば、本当の二刀一流を伝授されて初めて、会得することができる。と理解すれば良いのかも知れません。

 武蔵の言葉ではないと思いますし、言葉の学者でもありませんので、言葉については、この程度にしておきたいと思います。

 このように書くと、最後の三つは、武蔵が事細かく書き記した内容を、よく読んで理解し、稽古を通して身に付ければ、二天一流の真実を伝承されます。と但し書きをしているように思えます。

 【参考文献】 
・佐藤正英(2009-2011)  『五輪書』ちくま学芸文庫.


スポンサーリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です